不登校は悪いこと?元教員が体験した「人生に無駄なものなんてない

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私は2015年3月に定年退職の年齢となり教員生活を終えた。私は長い教員生活の中でたくさんの宝物を手にした。「宝物」というけれど、ほとんどは形のあるものではなく心の中に蓄積されているものだ。出掛けると色々なところで卒業生が声をかけてくれる。時には後方からの声に振り向いてみると卒業生だったりする。声をかけなくても私は気付かないのに、声をかけてくれるその気持ちがとても嬉しい。



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-小学生の頃

小学生の頃、私は不登校児だった。私は入学してから1か月もしないうちに、父親の転勤のため転校した。入学した小学校では「学校は楽しいところ」と感じていた。しかし、転校先の小学校は入学した小学校とは違っていた。と私は感じた。

前の晩には翌日の登校の準備をして就寝するのだが、朝起きると学校に行けないという日が続いた。運よく家を出たとしても、ある場所まで行くと帰宅してしまうという日が続いた。何年生の時かはあまり覚えていないが、担任の先生が「このままでは進級できないよ。」と言った。私はそれがどのようなことを意味しているのかよく理解できなかった。ただ「そうなんだ」と思うだけだった。

-不登校が終わった日

不登校は4年生くらいまで続いた。4年生の時、家を引っ越したこともあり転校をした。この転校が私を大きく変えた。転校したその日、ローマ字のテストがあった。私はローマ字で五十音を書くことはできたが、与えられた単語をローマ字に直すことができる状況ではなかった。案の定、テストの結果は惨憺たるもので、100点満点中5点だった。

担任の先生は、なんと全員の点数を読み上げた。もちろん私の点数も読み上げられた。周りの児童は「今なんて言ったの?」と私に聞いた。私は「聞こえなかった。」と答えた。もちろん「5点」という担任の先生の声ははっきりと聞こえていた。

昨日までの私ならば、もうこのことで翌日からの不登校は決定的だった。しかし、この時信じられないことが起こった。「今回は5点だったけれども、次は頑張ろう。」と思えたのだ。この日、私の不登校児生活は終わった。昨日と今日、このたった一日の違いは何だったのだろうと思う。

-その後の私

小学校卒業後、私は母親の意向もあり私立の中学校へ進学した。もともと内向的な性格だったが「中学校に行ったら新しい友達を作らなければいけない。自分から進んで友達の輪に入っていかなければならないなぁ。」と考えた。

私が進学した中学校には高校もあり、私はこの学校で6年間過ごすことになった。そして、卒業後、教育学部のある大学へと進学した。

-教員になってから

私の不登校児時代の経験は、教員になって生徒と接するときに大いに役立った。
不登校の生徒、不登校ではないけれど心に悩みをもった生徒が年々増加している。そういう生徒は小学校時代の私そのものだ。学校に行こうと思っても自然に具合が悪くなる。決して嘘をついているわけではないしサボろうとしているわけでもない。

しかし、そのような経験をしたことのない人は、そのことを理解し難いしなかなか受け入れることができない。とすると、そういう生徒は誰を頼ればよいのか。
私は、必要のある時に、生徒に自分が不登校児だったことを話した。登校時、決まった場所に来ると具合が悪くなったことを話した。「先生はあなたが具合が悪くなることを嘘だと思っていないし、そうなることがあるよね。」と話し、生徒に寄り添うことを心掛けた。

もちろん、自分のことをわかってくれる人がいると理解してもらうまでには時間が必要である。しかしその時間は生徒との信頼関係を作っていくのには必要な時間である。先生たちの中には、先生は生徒よりも上の立場にあり、下の立場にある生徒はその指導を受け入れるのが当然だと考えているのではないかと思える人がいる。しかし、私はそんな風には思わない。生徒との会話の時間を多く持ち、困っていることや悩んでいることがあるならばそれを聞いてやりたい。

年齢は下でも、生徒から教えられることもたくさんある。生徒が話してくる内容の中には世間では「NO」ということもある。生徒は自分の考えを押し通したいのではなく聞いてほしいのだ。生徒の気持ちがよく理解できることもある。すぐには解決できないこともある。じっくりと時間をかけて話をしながら解決に近づいていきたい。生徒ときちんと向かい合って話すことが重要である。

こんなことを心掛けながら生徒と接してきた。こう考えると、私の不登校児としての経験はよい経験だったに違いない。人生に無駄なものなんてないと思える。すぐではなくても、今経験していることは将来必ずどこかでつながる。

(秒刊サンデー:わらびもち